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連載記事 午後の散歩道
山田りかのハートフルエッセイ

プロフィール:某酒類メーカーに勤務するかたわら、ママ達の日々の暮らしを見つめる勤労作家。年齢不詳。いくつになっても、竜也の前では乙女です。

No.19

桜吹雪

『午後の散歩道』に、ようこそ!
いつ来てくれるのか と心待ちにしていた春が、この散歩道にも ようやく到来♪
桜並木と植え込みの草花、日差しと木漏れ日のコントラスト。 春の色彩に囲まれるだけで、足取りも軽やかになってくる。

友と賑やかにお花見をした帰り道、満開の桜並木を歩きながら、ふと足を止め、私は父のことを思い出す。 あの日の桜も、こんなふうだったなぁ、と薄いピンクの花びら越しに、夕暮れの空を見上げて思う。

桜の花びら越しに見上げる空。"

父が逝ったのは、今から4年前の4月の初め。
その年の3月に東日本大震災があり、関東ではまだ計画停電が実施されていた頃だ。
震災当時、会社で勤務中だった私は、横浜の実家と連絡が取れず、ハワイに住む一つ違いの兄からのメールで、両親の無事を知った。
国内の電話回線は不通だったが、兄によれば、国際電話は通じたのだそうだ。
後になって、兄は「あの時、オヤジと話ができて良かったよ」と言っていた。

震災で家を失ったたくさんの方々が、避難所で不自由な生活を送っていた。
直接の被害を受けなかった私達は、その方々のために、「早く、早く、春よ来い!」と念じていたけれど、その年の春は遅かった。
実家の横浜の桜がようやく咲きはじめたのは、3月の末だ。

震災の衝撃から、日本が少しずつ立ち直ろうとしていた4月の初め。
勤務中の私の携帯に、母から連絡が入った。
「お父さんが 起きられなくて。 今、病院にいるのよ」
父は脳梗塞で倒れ、意識を取り戻すことなく、翌朝に逝ってしまった。

開花してから、1週間で散ってしまう桜。

父は、ひとことで言うと「子どもじみた性格」の持ち主である。
もちろん、人間にはいろんな顔があり、たとえ家族でも、その人のすべてを把握することはできない。 たぶん父も、昔の職場や友人の間で、いろんな顔を見せていたと思う。 でも私達 家族の前で、父はいつも「子どもじみたオヤジ」の顔をさらしていた。

ささいな事で腹を立てる。腹を立てたら「立ててるゼ!」と全身でアピールする。
家族を怒鳴りつけ、ドアも冷蔵庫もビシャッ!と閉め、晩酌のビール瓶はお膳が割れるような勢いでダンッッ!と置く。 母は感情を殺した無表情で黙々と家事をこなし、年子の兄と私はビクビクしながら父の顔色を窺った。
一度怒り出すと 機嫌の悪さは何日も続き、夜、父が帰宅してから翌朝出勤するまでの間、家族はまったく気が休まらない。

「お父さん、巳年生まれだから 執念深いのよ」
別に巳年生まれの人が全員父みたいじゃないだろう、と子供心に思ったものだが、母としては、そうでも思わないと やり切れなかったのだろう。

夜中に両親が激しく言い争いを始めると、私は子ども部屋で目を覚まし、父母の間に飛び込んで仲裁する勇気もなく、ふすまの陰で震えていた。
隣りの布団にくるまり、背中を向けてスヤスヤと眠っている兄が恨めしく、起きている時は絶対に触らせない坊ちゃん刈りの後頭部を、爪でザラッと引っ掻いたりした。

黒電話、炊飯器、足付きの白黒テレビ。懐かしい〜

「もう、お父さんとは別れて、お母さんは自由になろうと思う」
夫婦喧嘩をした翌日などに、母はよくそんなことを言って憂さ晴らしをしていた。
「お母さんは生活力がないから、アンタはお父さんと暮らしてね」
母としては、娘時代のように自由な身の上を空想しただけなのだろうが、空想で見捨てられる子どもは たまったものじゃない。
「いやだよぉぉ〜。 お母さんと暮らすよぉぉ〜」
母のエプロンにすがりついて泣き叫んだ私は、大人になった今でも、その時の心細さが忘れられない。 三つ子の魂は、なかなか癒えないものなのだ。

さて、話は母ではなく父のことである。
瞬間湯沸かし器のようにすぐ怒り、一度怒るとなかなか冷めない南部鉄のやかんのような男であったが、機嫌の良い時は、私にとって面白い父だった。

クラシック音楽や落語のレコードを蒐集し、本棚には司馬遼太郎や藤沢周平、開高健の全集、グラフィック雑誌の『別冊太陽』などがズラリと並んでいた。
「こんな狭い部屋に…」と母は呆れていたが、私は物心つく頃から、父の趣味の影響を受けていた。

なかでも落語のレコード鑑賞は日曜日の楽しみだった。
伝説の落語家・五代目 古今亭志ん生の名作『火焔太鼓(かえんだいこ)』は、「蛇から血が出て、へーびーちーでー」の枕と、「半鐘はイケナイよ、おじゃんになるから」のオチの部分を、家族全員で斉唱したものだ。

昔、父に連れられて 寄席に行った。

父は、俗にいう「昭和ヒトケタ」の生まれで、戦闘機乗りに憧れて、予科練(海軍飛行予科練習生)に入っていたという。 (ちなみに私と兄は、父がすごーく年をとってから生まれた子ども、ということにしておく)
「あと半年、生まれるのが早かったら、俺は特攻で死んでいた」と言っていた。

予科練、特攻の順番待ちで生き残った父は、戦後、小さな広告会社で母と出会い、いくつか職を変えた後、モーターサイクル競技(賭博のオート二輪ではなく、スポーツ競技)の団体職員になった。

当時花形スポーツだったオートバイレース、モトクロスや「鈴鹿8耐」(鈴鹿8時間耐久ロードレース)などの企画・運営をし、世界会議に出席したり、皇族と会食したり、母曰く、「お給料の割には」なかなか華やかな仕事をしていたようだ。

子ども時代の夏の思い出は、鈴鹿サーキット!

しかし、いい時というのはいつまでも続かない。
兄と私が社会人となって独立した頃、父は団体を巡る財界の争いに巻き込まれ、最後は失脚する形でサラリーマン人生を終わらせた。

お気楽なOL生活を送っていた私には、父の境遇を理解することは難しかった。
ただ家にいる父の、年老いてもなお「子どもじみた性格」だけが鼻につき、プライドが高くて怒りっぽいオヤジとして、距離を置いてきた気がする。

関西の食文化「丸かぶり寿司」がこちらでも流行りはじめた時のこと。
恵方を向いて無言で太巻きを頬張る私の、ちょうど恵方に立ちはだかって、
「何で立ったまま食ってるんだ?」としつこく聞いてきた父の顔を、節分になるたび、今でも思い出す。

誕生日やバレンタインデーになると、私は娘の義務として父にプレゼントをした。
私の誕生日にも、ホワイトデーにも、一切お返しがないことはわかっていたが、
「まぁコレも、あと何回あげられるかねー」と、陰で母と囁き合ったものだった。
2011年のバレンタインが、最後のプレゼントになるなんて、思ってもいなかった。

父が気まぐれに買ってくれたマグカップ。 こんなふざけた柄が形見になるとは…

震災の年の4月の初め、父は病院に搬送され、そのまま息を引き取った。
人に世話されることを嫌った父は、最後まで家族の誰の手も借りずに、人生を終わらせた。

母から連絡を受けて病院へ駆けつけた時、
「お父さんと別れて、自由になりたい」と言っていた母は、病院のICUで横たわる父の手を握り、
「お父さーん、お父さん行かないでよぉ」と蚊の鳴くような声で話しかけていた。
私の頭は医者から聞かされたシビアな説明でいっぱいになり、その説明と父の姿を見比べることしかできなかった。

父が息を引き取った後、一度家に帰った私は、ハワイにいる兄に電話をかけ、最後の様子を彼に伝えた。
「お母さんと私に囲まれて、お父さん、両手に花だったよ」
その時、私は初めて、声を上げて泣いた。

兄は翌日の朝、姪を連れて実家に帰ってきた。
「オヤジ、ごめんなぁぁぁ」
大人になってから、父とうまく付き合うことができなかった兄は、父の亡骸にとりすがって男泣きしていた。

兄の横で貰い泣きしながら、私は、なんだお父さんは家族みんなに愛されてたんじゃないか、と、心のどこかで笑いたいような気持ちになった。

次の日の朝、父は葬儀社の車で、斎場へ運ばれた。
その車を家族みんなで見送った。
桜吹雪のピンクの花びらが、発車する黒い葬儀社の車の屋根に、模様のように舞い落ちていた。

一度ぐらい、父と2人でお花見をしておけばよかった。

ということで……。今回の散歩道は、春なのに湿っぽい話になり、誠に申し訳ない。
そんななか、最後に一つ、皆さまにご報告を。

私事で恐縮ですが、この度、長年勤めてきた会社を退職し、今月から英語学校に通うことになりました。 今までサボリ続けてきた英語に本腰を入れて向き合い、いつかなろう!と思っていたバイリンガルな女を目指す所存です。
これに伴い、今月より『午後の散歩道』は、勝手ながら月2回から1回の更新とさせていただきます。

人生後半に入っての無謀なチャレンジ。 「やってみなはれ」と肩を叩いてくれた、ビタママ編集部のY子に心から感謝し、これからも より楽しい『散歩道』になるよう、精進することを誓います!

「まーたお前は、そんなことしでかして……」
草場の陰で、父が呆れていることだろう。 でもコレ、あなたに似たんです(笑)

父の命日は、いつも桜の見頃。

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