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連載記事 午後の散歩道
山田りかのハートフルエッセイ

プロフィール:某酒類メーカーに勤務するかたわら、ママ達の日々の暮らしを見つめる勤労作家。年齢不詳。いくつになっても、竜也の前では乙女です。

No.10

心のなかに住んでる ともだち

『午後の散歩道』に、ようこそ!

赤や黄色に色づいた落ち葉が、歩道にカラカラと舞い落ちる季節。
クリスマスが訪れる前の静けさのなかで、あなたは何を思うだろう。
忙しい日々のなかでも、ふと「あの人はどうしてるかな」なんて、もうずっと会っていない誰かのことを思い出すことはないだろうか?

今回の散歩道は、メアドも知らない、LINEやFacebookでも繋がってない、心のなかに ひっそり住んでる人達について書こうと思う。

スマホで繋がってなくても、心では繋がってる。

ああ、つまり昔別れた元カレのハナシね。と思っている方には大変申し訳ないが、今、思い浮かんでいるなかに異性はいない。 無理に思い浮かべようとすると、何かモクモクと きな臭い煙が立ちのぼりそうなので、ここはしっかり蓋を閉めておきたい。

と、やっきになって心のハッチをキコキコと回す私のことを、道の向こうからそっと見ているのは幼馴染みのA美ちゃんだ。

A美ちゃんの家は 私の家の二軒隣りで、同い年の私達は小学校の6年間 毎日一緒に登下校した仲である。

ちびっこで すばしっこくて 子どもの頃から口だけは達者だった私と違い、A美ちゃんは おとなしくて おっとりしていて 動作がとてもゆっくりした女の子。 少し長めのオカッパ頭に切れ長の目をした色白のA美ちゃんは、今 思うと美少女小学生だったかもしれない。 母に切ってもらった前髪が気に食わず、自ら裁ちばさみでジャッとやり、ザンバラ髪を嘆いて泣き叫んだ私とは全然違う、奥ゆかしい子どもだったのである。
そんな対照的なキャラクターの女児二人が、6年間ランドセルを並べて毎日 小学校に通っていた。

今はいろいろあるようだが、当時公立の小学校といえば集団登校が普通で、朝は近所の子らと集団で登校し、帰りはそれぞれ仲良しの子ども同士で下校する。 それが一般的な小学生のスクールライフであった。

小学校の校門前は、今も昔もこんな感じ♪

すばしこくて活発な私は、入学式の時に母親と先生から「A美ちゃんと一緒に下校しなさい」と言われ、「はぁい!」と元気にお返事して、その言いつけを守った。 子どもの私は理由など考えることもなかったが、きっと大人達は、おとなしくてゆっくりしたA美ちゃんのことを心配していたのだろう。

大人になってからの6年などあっという間に過ぎてしまう。
けれども7才から12才までの6年間といえば、その子の人生の半分だ。
お揃いの黄色い帽子をかぶって、手をつないでスタートした学童生活も、3年たてば背丈も自我も育ってくる。
遊ぶにはおとなしく、話しかけても思うような返事が返ってこないA美ちゃんと一緒にいるのが、「つまらないなぁ」と思いはじめたのもこの頃からだ。

4年生のクラス替えでA美ちゃんと同じ組になった時、私は担任の先生から念を押すように「A美ちゃんをよろしくね」と言われた。
子どもの頃からええカッコしいの私は、もちろん「はぁい」と返事をしたけれど、心のなかでは「あ〜あ」と溜め息をついていた。

それから卒業するまでの3年間も、A美ちゃんと私は毎日一緒に下校した。
でもランドセルは並んではいない。 私は仲良しの友達とお喋りしながら歩き、A美ちゃんはその後を黙ってついてきた。 そんなA美ちゃんの様子をかわいそうに思ったのか、一時期 正義感の強い女の子がA美ちゃんと並んで歩いていたが、いったい何があったのか、いつのまにか下校の時にその子の姿は見えなくなった。

子どもには子どもの悩みがあるんだよ。

卒業式の帰り道も、いろんな思い出に浸りながら歩く私の後ろを、A美ちゃんは黙ってついてきた。 そのままいつものようにバイバイするつもりでいたけど、その日は違ってた。
A美ちゃんの家の前で、「じゃあね」と振り向いた途端、A美ちゃんが
「りかちゃん、今までありがとう!」
と叫ぶように言ったのである。 A美ちゃんが大きな声を出すなんて初めてのことで、私は心底驚いた。 だがもっと驚いたのは、あまり感情をおもてに出さないA美ちゃんが、切れ長の目から涙をボロボロ流していたことだ。

「なんで泣くの? また4月から中学も一緒だよ?」
さっきまでA美ちゃんのことなど空気のように思っていた私なのに、目の前で泣く彼女の存在が、心のなかにどっと流れこんできた感じだった。
「あたし中学は○○に行くの」
それは同じ区にある養護学校の名前だった。
「えぇーっ。 そうなの!?」
別の学校に行くと知っていたら、もっとA美ちゃんに優しくしてたのに。
もしもその時、私がダチョウ倶楽部を知っていたら、「聞いてないよ!」と、A美ちゃんにツッコミを入れるところである。
その時の私は、激しい感情を笑いで包む術も知らず、ただA美ちゃんの背中を撫でて、涙がおさまるのを待つしかなかった。

その日以来、A美ちゃんと会って話しをすることはなかった。
一度だけ、道の向こうにA美ちゃんの姿を見かけ、名前を呼んで大きく手を振ったことがあったけれど、A美ちゃんは以前と変わらず、はにかんだ笑顔をほんの少し浮かべただけだった。

卒業式の日、A美ちゃんはきっと、お母さんに言われて「今までありがとう」と私に言ったのだと思う。 A美ちゃんと一緒にいて私が「つまらないなぁ」と思っていた6年間、彼女がどんな気持ちで 私の後ろを歩いていたのかを考えると、今でも少し胸が痛くなる。

先日、エッセイのネタにと小学校の卒業アルバムを引っばり出し、将来の夢のページを見たら、A美ちゃんは見覚えのある字で「保母さんになりたい。 子どもが好きだから」と書いていた。
中学の途中で横浜に引っ越した私は、彼女が今どこにいて、何をしているかわからない。 幸せで、おっとりと優しいお母さんになっていればいいなぁ、と、日本人形みたいなおかっぱ頭を 懐かしく思い浮かべた。

女の子ならきっと経験があるハズ。…エッ。私だけ!?

メアドも知らない、SNSでも繋がってないもう1人の友達は、私の短大時代のクラスメイト、G実ちゃんだ。
私が通った短大というのは、先日まで放送していたNHKの朝ドラ『花子とアン』のモデルになったカナダのミッションスクール。 ドラマで描かれていたような良家の子女がたくさん通う、いわゆるお嬢さん学校である。
下の学校からエスカレーター式に上がってきた子達はもちろん、私と同じように外の高校から受験して入学してきた学生も 裕福な家庭の娘が多く、一般家庭で生まれ育った私には、経済格差に苦労する2年間だった。

母校の校舎。懐かしい〜。

G美ちゃんも、私と同様 受験組の学生だったのだが、彼女が抱えているのは私などよりもっと重いものだったと思う。

入学式の後、学生ホールでカンファレンスが行われた。そこで私達は学生課の先生から1人ずつ名前を呼ばれたのだが、G美ちゃんは名前を呼ばれた時、
「あの〜、ちょっといいですか?」と先生に言ったのだ。

「私、高校まで『吉田』って苗字を使ってたんで、ここでも吉田でお願いしたいんですけど……」
小声で私語を交わしていた私達学生はここでシンと静まり、先生とG実ちゃんのやりとりを聞いた。
「私は平気なんですけど、親が吉田にしておきなさい、って言うので」

G実ちゃんの本名は朝鮮名の姓なのだが、彼女はこれまで吉田G実として学校時代を過ごしてきたのだという。 すると学生課の先生は、
「そうでしたか。 でも本校では本名を使って下さい。苗字をわざわざ日本名に変える必要はありません」
そんなことは大した問題じゃない、という感じで、G実ちゃんの親の意向を一蹴してしまった。

「え〜。でもぉ」と言い返そうとするG実ちゃんに、先生は
「自分の国や名前に誇りを持ちなさい。本名のままで勉学に励みなさい」
決然とした声でそう告げた。

学生課の先生の語気に押され、「はぁい」と答えたG実ちゃんは、その日から卒業するまで、本名のままで勉学に励んだ。
『花子とアン』で主人公・花子が女学校を卒業する時、校長のブラックバーン先生が「誇りをもって自分の道を切り拓け」と生徒達に語りかけるシーンがあった。 それを見ながら私はあの学生課の先生を思い出したものである。

G実ちゃんは、今なら少女時代のメンバーにも入れそうなキリッとした美人で、私などよりずっと学業にも優れていた。 彼女はモデル体型のNちゃんと仲が良く、2人で学内を笑いながら闊歩する華やかな姿をよく見かけた。別のグループで暢気な学生生活を送った私は、彼女の内面を知ることなく卒業したのだが、G実ちゃんの強くて明るい笑顔はずっと心に残っていた。

きっとすごく美しい花嫁さんになったと思う…。

あれから長い年月が過ぎ、小説家を目指して作品を書くようになってからも、私は時々彼女のことを思い出した。 それで『G実の庭』というタイトルの短編を書いたりもしたのだが、この作品は残念ながらコンクール受賞とはならず、日の目にも彼女の目にも触れることなく、今も私のパソコンのなかで静かに眠っている。

さて心のなかに住んでいる友達 最後の1人は、会社の先輩K子さん。
この人は 私とは10才も年が離れたお姉さんである。 年功序列がキッチリした会社のなかで、大先輩のK子さんと親しく付き合えたのは、彼女のおおらかでボーダレスな性格のおかげだと思う。

出会ったのは今からずいぶん昔のこと。
茨城県のつくば市で、科学博覧会という国を挙げてのイベントがあり、その博覧会にパビリオンを出展することになった我が社の現地駐在員として、年の離れた2人が赴くことになったのである。
博覧会の開催期間は半年で、私達はその間、会社で借り上げたマンションの一室で生活を共にした。

辞令を受けた当初は、10才も年上の先輩と半年も一緒に暮らしていけるだろうか、とナーバスになったものだが、
「ハァイ。 これから半年よろしくねー♪」
いざ本人に会ってみると、明るくてまるで偉ぶった様子がない。
不二家のペコちゃんのような丸顔に満面の笑顔を見た途端、
「あ、なんか友達になれそう」と直感した。

その直感の通り、K子さんと私はすぐに打ち解け、仲良しになった。
共同生活のなかでは家事も食費も折半。 部屋も窓のある部屋とない部屋を交代で使う。 お菓子やジュースは食費と別に月2500円ずつ出し合い、食べたくなったらケチらずに買う、というのが2人のルール。 おかげで博覧会が終わる時には、仲良く5キロずつ体重が増えた。

不二家のミルキーを見ると、K子さんを思い出す。

博覧会チームが解散し、それぞれの実家に戻っても、私達の仲は続いた。
私が会社を辞めて小説を書いている時も、それは変わらなかった。

K子さんが実家近くのマンションを買った時は、泊りがけで遊びに行った。
お正月明けの週末には、スーパーで毛筆セットを買い、書き初めをした。
私が『新人賞』とか『常若乙女(とこわかおとめ)』など、煩悩丸出しの書をしたためると、K子さんも負けじと達筆な字で『くびれ』と書いていた。

K子さんは私と同じく映画や演劇が好きで、私達はその点でも気が合った。
蜷川幸雄の演劇イベントで、17才の藤原竜也が渡辺えり子と三島由紀夫の『卒塔婆小町』を朗読した時は、美しく才能にあふれた竜也少年に揃って胸を射抜かれた。 以来、彼の舞台があれば必ず劇場に足を運び、彼の成長を共に見守ってきた。

K子さんと、ディカプリオの出世作『タイタニック』を観たのは、歌舞伎町の映画館だった。映画の冒頭に「ディカプリオってさ…」と小声でお喋りをしたら、前の座席のゲイカップルに物凄い目で睨まれたのを、今でも覚えている。

そのK子さんが東京の大学病院に入院したのは、今から10年前のことだ。
常日頃、「人生は楽しむものよ!」と公言し、その言葉通り仕事を続けながらパワフルに毎日をエンジョイしていたK子さんが、
「最近疲れやすくて…」と、時々漏らすようになってから、間もなくのことだった。 私はそんなK子さんが心配で、週に2回のペースで病院へ見舞ったのだが、病室へ行くと、水を入れたペットボトルを握ってダンベル体操をしていたりする。
「入院してると、カラダがなまっちゃうから」
ウフッとペコちゃんの顔で笑いながら、せっせと体操するK子さんを見て、この人、ホントに病気なのかしら。と思ったものだった。

病院を2か月ほどで退院したK子さんは、体調を見ながら、でも決してペースを落とさず、映画や旅行や買い物を楽しむ生活を続けた。
薬の副作用で足を悪くし、杖をつくようになっても、
「りかちゃん、ジョニー・デップを観に行きましょう」とメールをくれた。

2度目の入院をしたのは震災のあった2011年の初めで、ひなまつりの日に、デパートで買った和菓子の箱を広げ、「どっちでも好きなほうを選んでいいですよ」と言うと、K子さんは迷わず、桃をかたどった可愛い練りきりを選んだ。

桃の和菓子。 女の子♡

震災後すぐに退院したK子さんは、計画停電のなか自宅で療養し、社会生活に復帰した。 病み上がりの体で通勤するのはきっとすごく大変だったに違いない。けれどもK子さんは会うといつも元気で、ペコちゃんの笑顔で
「どこ遊びに行く〜?」と言うのだった。

その年の秋、しばらく連絡がないなぁと思ってケータイに電話すると、長い呼び出し音の後、「もしもし」と囁き声が返ってきた。
「あれ? 今どこですか?」 異変を感じて恐る恐る訊ねると、
「今ね、ICUにいるの。看護師さんがいないから、電話出れた〜」
「えーっ! ケータイダメでしょ? 切ります、切ります!」
「大丈夫。 やっと動けるようになったから、ヒマで…」
聞けば、K子さんは数日前に自宅で具合が悪くなり、救急車で近くの病院へ搬送されたのだという。 そんな人がICUでケータイに出るなんて。
心配するより先に、思わず笑いが込み上げてきてしまった。

その病院から主治医のいる大学病院へ転院したK子さんは、見舞いに駆けつけた私を、いつもの笑顔で迎えてくれた。
亡くなったのは、それからひと月ほどたった、11月の最後の日だ。

赤い綺麗な着物をかけられ、眠ったように横たわるK子さんを見た時、私は人生で一番泣いた。 私はその年に父を亡くしたのだが、仲良しの先輩を突然うしなう悲しみは、肉親のそれとは違う痛みがあった。
葬儀の受付を済ませ、斎場に戻ると、そこには祭壇に飾られたK子さんのペコちゃんの笑顔があり、また悲しくなって号泣した。

親族の方々の配慮で、私はK子さんが生前親しくしていた数人の友人と、火葬場までお供することになった。
その日は冷たい雨が降っていたのだが、控室を抜け出し、火葬場の上に広がる空を見上げると、雲の切れ目から太陽が顔を覗かせている。陽の光が、雲と雲を結ぶ階段のように、まっすぐ伸びていた。
身体のどこも痛い所がなくなったK子さんが、あちらの世界へ元気に上っていったのかな。 そう思うと、胸の痛みが少しだけ和らいだ。

K子さんの電話番号とメアドは、スマホに替わった今のケータイにも そのまま記録されている。 名前を見ると寂しくなるから、あれから一度も呼び出したことはないが。

あなたの心のなかにも、会えないけれど会いたいなぁ、と思う友達が住んでいませんか?

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